2024年5月7日火曜日

何度も挫けて今も挫けて


モノクロによる描くままのイメージ

クリエイティブ--と言う程のことではまったくありません。ただ私は、描くことが好きだったので、己の身に備わったものを良く認識することもなく、また自身での努力がどこまで可能か、などといったクールな観察もなく、ある時期から漠然と商業美術で身を立てたいと思うようになりました。 元々粘り強さのない性格だったので、それまで勤めていた現実的にサラリーの得られる仕事を辞めてしまいました。正直を言いますと、当時の職場には息が詰まりそうでした。

事情は色々ですが、ここでそれを申し上げてもしょうがありません。しかし現実に仕事を辞めてしまったのですから別を探さねばなりません。転々とバイトをする羽目になりました。収入は半減し、より多くの人に、時にはもっと若い人に使われる立場になりましたが、別に後悔はありませんでした。未来に希望を持っていました。

バイトから戻ったら、自宅の机(ガラクタを改造した)で絵を描いていました。元々は漫画好きで、特にSF関係が好きでしたから描く絵もその類でした。何年か続けてそこそこ描けるようになった思えた時に幾つかのイラストを持って雑誌社などを訪ねました。好意的なところもありましたが、殆どは行くだけ無駄のようなものでした。相手にしてもらえるようなものではありませんでした。

多くの人間は自分が見えない。画家は自分が描く絵が見えない。つまり、そう言うことでした。

クールな観察も芽生えるようになりました。たまに仕事は取れるかも知れない。その可能性は全くない訳ではない。でも、それでずっとやって行ける程かどうか、つまり身を立てられるか否か--に関しては悲観的にならざるを得ませんでした。私は、そんな状態でした。

今から思えば無鉄砲でしたが、少々の蓄えを頼りに上京しました。私はそれまで大阪に居ました。しかし本格的に取り組むならメディアが集まっている近くに居ないと話にならない、そう思ったのです。遥かな昔です。

小さなアパートに潜り込んだときは、実はこの辺のことに関しても一筋縄ではいかなかったのですがそれは割愛しましょう。とにかく、小さな衣類タンスと本と机を除けば人間一人横になるのがやっとの狭さでした。後に冷蔵庫を買ったので、寝床の確保が大変でした。

過去の苦労話をしているのではありません。私は楽しかったのです。多分多くの人がそういう駆け出しで将来を夢見たのだろうと思います。どうにかセッティングした机で、ここでどうやって絵を描くか、その工夫をするのがこの上なく楽しいものでした。

私はSF関係を目指しましたので、メカニックなどのリアル系でして、当然人間、特に女性は描けなければなりません。SFはメカと女性だと言われていました。異論はありません。ドローイングだけじゃなく絵の具も扱えなければならない。当時周辺で多く用いられるようになっていたアクリル絵の具でバイトのないときにずっと描いていました。デジタルで絵が描けるなど、想像もしない時代でした。

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